北でも南部

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これは盛岡市の南部稲荷神社の入り口にある南部家の御紋じゃ。南部といえば、江戸時代に青森の東部と岩手の北部、そして我が鹿角を治めておった南部藩のお家じゃな。南部家のそもそもの出自は甲斐武田家ということじゃが、まあ今回は深く触れぬ。その南部家、戦国時代には版図を拡大するとて、その頃の本拠地であった青森東部から我が鹿角へ進出してきたのじゃ。まあ、我が鹿角は鉱山多いゆえに、どの勢力も狙っておったのじゃろ。そのうえ当時の鹿角は、そのころにしては肥沃で石高も多かったようじゃ。そのかわり河川氾濫も多かったじゃろうが。最初の頃は南部家重臣の石川高信あたりは「鹿角は手練多く戦に熟れておるから云々」と消極的だったようじゃが、秋田で一大勢力へと成長した安東家という大名が鹿角進出の気配をみせておったので、まあ結局南部家も出てきたというわけのようじゃ。このへんのくだりは高橋克彦著「天を衝く」とかがおもしろいか。司馬遼太郎の「街道をゆく」にもなかなか興味持って書かれてたりするな。とにもかくにも、おかげで南部VS安東の戦が我が鹿角で何回も行われることになるのじゃ。結果、南部家の占領下になるわけで、そんで幕末を迎えるまで我が鹿角が南部領として歩んだわけじゃ。幕末にはまた我が鹿角が南部の最前線基地になって十二所、大館桂、さらに五城目へと戦火を広げていったり・・・
で、何が言いたいかというとじゃ。明治に入ってから我が鹿角は秋田県に編入されるわけじゃが、南部の色がいまだ色濃く残っておるのじゃ。たとえばほれ、柴内にある万松寺なんかだと、座布団にはでかでかと南部の御紋が入っておるし、所蔵しておる掛け軸の中にはこんな↓
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南部家二十七代目、利直公の肖像画があったりといった具合じゃ。まあ、そんな目に見えるものじゃなくても、地元民の言葉自体が南部訛りじゃと言ってしまえばそこまでなんじゃが。しかもほれ、下川原集落に古くから伝わる「駒踊り」なんて行事(神事)ぁ南部っぽさありありじゃ。↓
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・・・と思えば逆もまたあるぞな。この下の写真は岩手の花巻に行ったときに見つけて撮ったのじゃが、「盛岡毛馬内桃太郎甲冑」と説明書きされておった。この甲冑の持ち主、毛馬内治めておった南部藩士だったんじゃろ。廃藩置県でこっちにきたのかのう。いや、幕末のときの毛馬内城主は桜庭氏じゃったか?まあよい。
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いまでこそ我が鹿角は秋田県じゃが(それももう秋田県になってだいぶ経っとるが)、県庁所在地まで車で三時間近くかかるのはなんだかのう。岩手県の盛岡市とか青森県の青森市とかなら高速使って一時間でいけてしまうのもなんだかのう。司馬遼太郎は我が鹿角を(歴史的に)評してアルザス・ロレーヌに似たりとしておったが。
で、朕は何が言いたかったんじゃ?・・・そうそう、我が鹿角は南部の色が強く残っておって…いや、このダンジョン深い深い。迷うぞなもし。(朕)
by deepkazuno | 2006-11-19 16:08 | ダンジョン
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