雑惑

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我が鹿角は四季の移り変わりまるで天然のキャンパスのようなもの、とは朕の側近がかつて言うたことじゃが、我が朋友に言わせれば我が鹿角は写真家の聖地と申す。古の伝説によれば、我が鹿角を訪れた二戸出身の二人のマタギは、我が鹿角を桃源郷なりとて、捕りし熊の皮を皮投岳にて打ち捨て、柴内に移り住んだというのう。我が鹿角が美しい里じゃということは朕がよう知っておる。しかしな、先日、朕の花の師匠と語りおうたときに、色々と美しさのうちに住む民のことを考えさせられたのよ。花は食えぬ。食用の花もあるが、一般に花はその美しさを愛でるものよ。それが、我が鹿角の民は真に花を愛でるものが少ないというのじゃ。いや、多くのものは愛でるじゃろう。しかしその真価を知るもの、価値を見出すものが少ないというのじゃな。それは芸術や文化に対する造詣の深さに比例しとると考えるのが妥当じゃな。存外、我が鹿角には楽器や舞踊といった芸能に長じたものが数多いのじゃが、これはいかなることであろう。このところ我が鹿角は運動に力を注いでおる。そのことはとても良いことじゃ。スポーツで得られる忍耐、成功、挫折、健康、人の輪、結束力、精神力はとても健全で素晴らしいものじゃ。一方で、よう文武両道という気風が古来重きをなしてきたのは何故か。武を治めるには、その力に見合ったモラルが必要だからじゃ。いかな強い選手であれ、競技に対する真摯な姿勢とルールを守り周りの選手に対する道徳的な態度がなければ大成はせぬ。よしんばしても悪評がついてまわろう。大選手こそモラルが必要不可欠ゆえに他ならぬ。そのモラルを育てることこそ、花を愛であるいは芸能を嗜み、あるいは書を読み人の話を聞き頭脳の中で分析し我がものとする、いわゆる文芸であると思うのじゃ。この部分が、我が鹿角には若干欠けておると思えなくもないのじゃ。国立公園を南北に抱え、かつての世界一の鉱山や貴重な縄文遺跡、数多の城砦や大自然を足元に置く我が鹿角の住民こそ、全国に誇れるモラルの持ち主でなければならぬはずじゃ。主要産業の農業と観光、これは人の口に入るものの生産と人を癒し愉しませること、これぞモラルが欠けてはならぬのは道理であるな。我が鹿角は奥寺康彦殿や浅利純子殿など偉大なスポーツ選手を輩出しておるが、また内藤湖南殿や小田島樹人殿ら偉大な文人が出た地でもあるのじゃ。現代の我らも、文化芸術にもそっと興味を持って接さねばならぬ。せねば祖先が悲しむぞな。そしてそれは我らが子らのためでもあると思うが、いかがか。おまけにそれは我が鹿角が自然と飛躍的に発展する直接の起爆剤となると思うのじゃが・・・。
・・・なんちて。(朕)
by deepkazuno | 2007-08-17 21:00 | 宿屋うまごや
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