新説白根金山発見物語

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さて、上の写真は朕が以前から「あそこから見下ろしたら毛馬内一望じゃな」と思うておったところがあってのう、ついに先日そこへ実際に行って毛馬内の町を撮ってみたものじゃ。案の定、毛馬内一望じゃ。どうじゃほれ。・・・まあ、それだけなんじゃが。それはそうと、この写真奥、ちょうど中央付近にポッコリとしたメタボな山があるじゃろ。そこが男神の山じゃな。そのやや右よりの山の向こう側にはのう、かつて日本無双と謳われた「白根金山」(又の名を小真木鉱山と申すのか?ちと位置がずれておるのか?)があったのじゃ。産すること夥し、と言われたその白根金山の発見に関して、ちと朕の新説を披露するからまあ読みたまえよ君。

昔、江戸に徳川幕府が出来た頃のこと。南部氏の奉行として鹿角にやってきた北十左衛門に、あるお婆さんが土地の諍い事を相談に来た。十左衛門はお婆さんの悩みを見事に解決してあげると、お婆さんはお礼にと、立派な長芋を十左衛門に差し出した。十左衛門がその長芋をよく見ると、芋についた土にキラリと光るものが沢山混ざっていた。光るものはまさしく砂金で、十左衛門はお婆さんにこの長芋はどこでとったのか聞くと、いえの裏山にある林でとれたものだという。鹿角では、不作だった年の年越し蕎麦の代わりとして除夜豆腐というものを食べる習慣があった。除夜豆腐には長芋のとろろが付き物で、冷害の年でもよくとれる長芋は重宝されていたのだ。十左衛門は、もしや砂金を産する山かと思い、お婆さんに長芋が好きだからもっと分けてくれと頼んだ。お婆さんはさても芋好きなお奉行様だと思いつつ、言われるままに長芋を持ってくると、果たして砂金つきの芋であった。鹿角の民に十左衛門が聞くと、古くは奈良の大仏造営に鹿角の産金が使われ、そしてかつて奥州に安倍氏や藤原氏が栄華を誇っていた時代は、鹿角は金の産地としてその隆盛を支えたのだという。しかし彼らが滅んでからは金の採掘も行われなくなり、今では話には伝わるものの、皆その金がどういうものか見たことがないとのことだった。十左衛門はお婆さんに案内してもらい裏山の林へ行ってみると、まさしく砂金まじりの山土であったので、土地を買い取って金の採掘を始めた。これが日本無双と称された白根金山の始まりである。十左衛門はまた、相次いで近隣に五十枚金山、西道金山などを発見し、その産金は南部氏の財政を長きにわたり大いに支えることとなった。北十左衛門と鹿角の長芋、ひいては除夜豆腐がもたらした、世界最大規模の金山地帯の再発見であった。その除夜豆腐は、美味しくて八杯でも食べられるということから八杯豆腐とも呼ばれ、今でも精進料理や不祝儀の際によく出される。
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余談ではあるが、北十左衛門はその後、主家に逆らって大阪の陣に豊臣方として入城した。その際鹿角の産金とそれによって仕入れた武器を大量に伴っていたと伝えられ、南部の光武者と異名をとって活躍したが、大阪落城の後捕えられ、怒り心頭に達した南部氏当主自らの手によって凄惨な最期を迎えることとなる。


いかがじゃ。まあ、十左衛門と長芋、長芋と除夜豆腐をつなげただけじゃがな。とろろだけに。しかし推測交えておっても大きな間違いはなかろうて。ある?まあ、話には有機的なつながりあった方が面白いじゃろ。とろろだけに。ちなみに除夜豆腐、下に作り方を書いておいてしんぜよう。もしかしたらカラシの代わりに松舘しぼり大根を使うてもよいやもしれぬな。やさしいのう、朕。の、割には、除夜豆腐の写真がないから不親切じゃな。近頃晩餐に出んから無いのじゃ、写真。(朕)

<材料(5人分)>
木綿豆腐 2丁
だし昆布 20cm1枚
長芋 400g
塩 少々
だし汁(煮干しだし)
醤油 適量
酒 大さじ2杯
からし 適宜

<作り方>
1.ボールにたっぷりの水を張り、豆腐を細長い拍子木状に切って入れ、塩を加えてにがりをとる。
2.長芋をすりおろし、すりこぎですり、途中で酒を加えてさらにすり混ぜる。
3.醤油で味付けしただし汁を2に加え、少々濃いめに味付けをしておく。
4.水を入れた鍋に、豆腐とだし昆布を入れ、煮立って熱々になった豆腐を水切りしてお椀に盛り付け、3のとろろをたっぷりとかける。
5.好みでからしをのせる。
※ネギの小口切りや刻み海苔を散らしてもよい。
by deepkazuno | 2007-12-04 19:23 | 酒場あばん亭
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