史跡としての鴇鉱山跡

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度々、このブログで紹介しておる、小坂町にある鴇鉱山跡。ここはよう見返してみたら、小坂町の史跡として指定されておるんじゃな。鉱山の歴史と切っても切り離せぬ我が鹿角ゆえ、鉱山跡を史跡として見学対象にするのはとても良いことじゃな。流石じゃ、小坂町。この調子で、我が鹿角に100箇所あまりもあったという鉱山全てを史跡にして、ついでにマップにしてみるとたいそう面白そうじゃな。近頃尾去沢鉱山跡が目指しておるのも、この史跡としての取り扱いのようじゃ。ところで、鴇鉱山跡に掲げられておる説明板には、以下のような文が載っておる。

鴇鉱山は、延宝6年(1678)の発見といわれ、鉱山師(やまし)たちによって何度か操業が繰り返された銅山でした。文化4年(1807)に十和田湖を訪れた菅江真澄は、「ときとおやまの産銅が百年前に掘り出されていた」と記しています。
 鴇鉱山が最も栄えたのは、明治35年(1902)に山県勇三郎が再開してからで、社宅街や病院・学校が整う鉱山町も生まれました。今に残るレンガ煙突もこの時代に建てられた物です。その後、藤田組の経営となってますます盛んになりますが、大正10年(1921)に選鉱場が焼失、その後閉山となりました。


うむ、たいしたものじゃ。最盛期を迎える前にも、一時は南部藩の主要鉱山として鴇鉱山の名がでておるくらいじゃ、永きにわたって栄えたのであろうな。で、説明にも書いておるレンガの煙突、こないだ接近してみてのう、ごく近くから写してみたのがこれじゃ。
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すごいのう。歴史の遺産そのものじゃな。ただし、煙突の突端はレンガが崩れてきておるからな、危険じゃから充分に注意せよ。
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グルメも精進料理もダイエット食も、その素となる食糧生産の場は農地で生産者の手によるものじゃが、自動車にせよビルディングにせよ電線にせよ、同様にその素となる金属産出の根源は鉱山で鉱夫たちの手によるものじゃ。そう考えれば、我が鹿角は気が遠くなるくらいの長い歳月、我が国やその他の諸国の工業発展に物凄い貢献をしてきたと思わぬか。今はほとんど日本国内の鉱山は稼動せず、長年わが国のリーディング産業である工業生産で使用する金属は専ら国外からの輸入に頼っておる。しかし元々、原料あっての工業生産じゃ。原料調達を全て輸入に頼っておるのは、長期的に安定するとは歴史的にも有り得ぬ。そこが我が国の不安要素であり、それは先の例にあげた食糧についても言えると思うのじゃが、どうかのう。兎にも角にも、かつて我が国の成長を根本で支え続けた、というか根源となっておった鉱山、感慨とともにその跡を見るのは、歴史そのものを体験できるという感覚を覚えるのじゃ、朕ってば。あれ?そういや今日はクリスマスイヴ?(朕)
by deepkazuno | 2007-12-24 11:48 | ダンジョン
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