黄金の道

d0085096_17511069.jpg
今更ながらいよいよ2008年になったわけじゃが、覚えておるかのう?今年は尾去沢鉱山開山1300年目の節目の年じゃぞ。それを記念して、我が鹿角では「十和田八幡平黄金歴史街道キャンペーン~鹿角を往く~」という観光キャンペーンが繰り広げられるのじゃ。内容を大雑把に言えば、今年世界遺産に登録される平泉と、すでに世界遺産登録されておる白神山地を、ちょうど中間に位置する我が鹿角を通るルートで観光してはいかがかな、というものじゃ。なんで我が鹿角を通らにゃいかんのじゃ、ということなんじゃがな、まあ十和田湖も八幡平も我が鹿角の極めて良い観光地なのじゃが、できれば平泉の文化と我が鹿角を、ちと金の道ということで結びつけて、歴史の面白さも味わいながら巡って欲しいと、朕は思うたりするわけじゃ。以下、朕なりのこのキャンペーンの一つの捉え方じゃ。長文とあさはかな思考は笑って許したまえよ。
d0085096_17512985.jpg
我が鹿角は「伝説の里」という名にふさわしく、民間に伝わる伝説や民話の類が非常に多いのは皆知っての通りじゃ。その数たるや、いまや民話の里といわれる岩手県の遠野のそれに、勝るとも劣らぬ。「国内の山村にして遠野より更にもの深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。」と民話研究の第一人者であった柳田國男が言っておったと、閣下がこのブログでも紹介しておるな。これぞまさに青垣の山に抱かれた我が鹿角をして伝説の里たらしめていると言える至言ではないか。また司馬遼太郎も、奥羽山脈の真ん中に位置し北と南、東と西をつなぐ重要な街道のクロスロードである我が鹿角をして、西洋のアルザス・ロレーヌ地域は我が国の鹿角であろうとし、特殊で豊かな文化と人材の宝庫たりえる要素が足りていると述懐しておる。
多くの文人・歴史家を惹き付けた我が鹿角の奥深い文化。極めて多様なバリエーションに富んだ伝説・民話の数々は、我が鹿角の文化のあらわれと言えようぞ。
中でも「錦木塚の物語」などは京都貴族たちの恋文の格好の題材とされたり、世阿弥によって能の曲目になるなど、たいへん魅力に富んだ伝説として長い間愛され続けておる。また、一説に霊力をもったマタギであったともされる草木の若者「八郎太郎」の物語などは、その展開の壮大さ、緻密さは他に類をみない完成度の高いドラマじゃ。「だんぶり長者」伝説などは、ストーリーもさることながら、かなり古い時代から大和政権と我が鹿角の関わりを示唆する、たいそう興味をひく内容となっておる。
このように多くの伝説や民話が鹿角に存在する背景には、大湯環状列石などの遺跡に裏付けられた悠久の人の営みと、しばらく文字を持たず口伝で伝えられてきた歴史、奥州アイヌの豊かな文化が根付いておる。
そして我が鹿角の人々の豊かな文化を支えておったのは、狩猟や農業よりむしろ近代に至るまで鉱業じゃった。鉱山を中心として人が集い、各種の産業が盛りたてられておった。江戸時代中期には奥州の山中としては異例の取れ高2万石を誇ったのも、我が鹿角が奥州の街道の交差点であるだけでなく、鉱業がリーディング産業として栄えていたためなのじゃ。交通の要衝であり黒鉱といわれる鉱床に恵まれた我が鹿角は、自然と重要な土地じゃった。我が鹿角地域に開かれた鉱山の数は、現在まで記録にあるだけでも100を数え、これは世界的にも例が無い大鉱山密集地域じゃ。
d0085096_1752735.jpg
我が鹿角で鉱脈が発見され鉱山として開かれたときの伝説も、数多く残されておる。尾去沢の「光る怪鳥」の伝説、白根の「北十左エ門とやまいも」の伝説などなど・・・。このような鉱山発見に関わる伝説のなかで最も古い内容によれば、西暦708年、和銅元年に尾去沢に鉱山を開いたとされておる。和銅元年といえば、大和政権は藤原京にあって未だ西国での有力政権であったに過ぎず、大宝律令が発布されたばかりの飛鳥時代末期じゃ。この年、埼玉県の秩父から銅が大和政権に献じられ、和同開珎が作られておるが、貨幣が本格的に流通するのはずっと後の話じゃ。
太古の昔、「金」といえば、中国大陸でも銅のことを指して「金」と言っておったと聞き及ぶ。尾去沢で見つかったとされるのは、金であったか銅であったかのう。いずれにしても、神々しい光を放ち、延性に富む上に硬い希少金属は、武器に使われた他、当時急速に上流階級の間で広まりつつあった仏教のために、その需要が増大しておった。我が鹿角で古い時代に発見され、産出された金も、他地域との貿易や関係向上に有効に使われたはずじゃ。発見年代が伝説通りなら、奈良の東大寺大仏像にも使われたという伝承も真実味のある話じゃろう。また、高橋克彦氏によって、北方ルートでの大陸との貿易に使われた可能性も示唆されておる。
そして後年、英雄アテルイの時代を経て奥州に君臨した安倍一族のもと、我が鹿角の鉱山はさらに重要性を増してゆくのじゃ。前九年、後三年の役の争乱の後に安倍氏の跡を継いだ藤原氏は、今の岩手県平泉の地に居を構え、戦乱に明け暮れた経験から浄土思想に到達、平泉を中心に極楽浄土を現世に出現させようとしたのじゃ。浄土思想が絵に描く極楽浄土の姿は、清涼な世界であり、金の放つ輝きは清涼なるものとされたようじゃな。我が鹿角の産金が平泉のいわゆる黄金文化を支えたという言い伝えが真実ならば、金色堂に代表される平泉の浄土思想の具現化に、我が鹿角が大いに寄与したということに他なるまいよ。マルコ・ポーロが東方見聞録としてヨーロッパへ伝えた黄金の国ジパングは、一説に平泉の浄土思想に基づいた黄金の都を伝え聞いたものだというぞな。となれば、尾去沢をはじめとする我が鹿角の山々の産金が、日本の豊かさを世界中に知らしめたと言っても過言ではあるまい。全ては伝説の域を出ぬが、京の都以上に隆盛を誇った平泉の藤原氏は、源頼朝に滅ぼされた際、最後の当主藤原泰衡が我が鹿角へ逃亡し、この地で最後の時を迎えたといいよる。奥州藤原氏にとって、我が鹿角は切っても切れない縁の土地だったと言えような。そして藤原泰衡が落ち延びてきた道こそ、藤原氏と平泉の黄金に輝く浄土思想の都へ、我が鹿角の産金を運んだ道だったのじゃ。
d0085096_17522582.jpg
・・・こんな妄想しておると、平泉から我が鹿角まで歩いてみとうならんか?現在の国道282号線こそ「鹿角街道」という古い名が残っておる。我が鹿角の産金の通った道は、南は平泉、そして逆方向ならば十三湊へ向かって沿海州との交易ルートで大陸へと繋がっておったやも知れぬぞな。なにしろ、十三湊に寄っておった豪族こそ、かつて奥州に威を張った安倍一族の末裔と称する、安東氏じゃったからのう。となれば、白神山地の麓も経由地じゃ。あれ、言い得て妙じゃな!こじつけすぎかのう。考証せんでつらつらと書いたから、間違っておったらメンゴメンゴじゃ。(朕)
by deepkazuno | 2008-01-24 18:00 | 酒場あばん亭
<< 朕の好物 縁談は短気が損気 >>