三哲神社物語

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我が鹿角のすぐお隣、大館市への街道沿いに、昔は藩境の重要拠点としてあった十二所という町があるのう。米代川に沿って走る毛馬内~大館の細い街道が、一層狭くなったところに十二所は位置しておる。この地勢は、我が鹿角から大館へ軍隊が攻め入るときには、我が方の足を止め防ぐにはもってこいじゃ。狭隘な地は大軍の効果を無くしてしまうからのう。そんな、戦略的に重要な十二所の町を見下ろす山の中腹に「三哲神社」と申す社があるのじゃ。菅江真澄も立ち寄ったというこの社、こんな物語がついておる。

当神社の祭神は千葉秀胤(前名は下戸前常政)、いわゆる三哲である。
秀胤は南部藩福岡の産で、江戸に出て学問、医術、武芸の三道を学んで帰郷したが、故あって所々を流浪し、のち十二所の宍戸、菊池両氏の食客となった。町民は、彼が三道に優れていたので三哲と呼び、門人となる者も多かった。
寛文十二年(1672)、十二所の重臣の妻(一説十二所城代)の重病を彼が治したが、約束どおりの治療代を払わなかったので、その禄米を奪って貧民に施した。訴えにより三人の捕手が彼を誘い、大滝温泉で入浴中に太い棒で殴って捕縛、二日後の六月十七日に息絶えた。時に享年四十九歳。
三哲は死ぬ前に「死後も十二所を守るから、えぞが森の中腹に葬ってほしい。さもなくば十二所に大火が起るであろう。」と言ったが、罪人のために、町民はそうしなかった。ところが四年後の延宝四年(1676)、十二所に大火があり、全焼した。町民は大いに恐れて、彼を改めてえぞが森の中腹に葬り祭った。この頃から、えぞが森は、三哲山とよばれるようになった。


・・・。なんとも人間臭い物語じゃな。三哲と申す英傑、けっこう行動が過激にも思えるぞなもし。朕はこんなもどかしさ満載の話、大好きじゃがな。さもなくば・・・って全焼させちまうとは、守り神か祟り神かってとこじゃな。朕も我が鹿角にとってのこんな人物になってやるぞなもし!(朕)
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by deepkazuno | 2007-06-08 16:51 | 近隣諸国
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